Kyoto Shimbun 1998.2.3  インタビュー

支えられかなえた出版の夢
人情の温かさに泣いた日もあった

弥生書房会長  津曲 篤子さん(77)

 人との出会いが、人生にさまざまなドラマを生む。津曲篤子さんは、出版の世界に身を投じて五十五年。波らんに満ちた半生を、多くの人々に支えられ、苦しい日々を分かちあい、出版の夢をなし遂げてきた。よき人にめぐりあえた喜びに感謝し、自らを「幸せ者です」と話す。

―婦人公論の仕事が出発点ですか。

 志を抱いて中央公論社に入社し、婦人公論の記者として仕事を始めました。同僚の津曲淳三が出征先から帰り、結婚しました。津曲と出会ったおかげで、私は曽我量深(りょうじん)先生とお会いするご縁が得られ、お念仏をいただけるようになりました。

―ご主人はどのような方でしたか。

 初めは何を考えているのか分からない人でした。働いて稼ぐ気のない人だと後で気づきました。お米を買うお金がないと言っても「ぼくは知らんよ」と動じない人で、赤貧洗うがごときどん底の生活を繰り返しました。

―曽我量深さんとの出会いは。

 津曲は「歎異抄」を一冊持って出征したほどの求道の人です。たまたま図書館で曽我先生の「親鸞の仏教史観」を読んで深い宗教的信念を感じ、生涯を曽我先生に師事しました。

―出版社の仕事は。

 津曲は京都におられる曽我先生に直接聴聞したいと言い、京都へ行きました。一人で生活できない人だから私も行って借家を見つけましたが、十日もせぬうちにそこが気に入らないと大谷高校の寮へ移りました。そのつど人さまのお世話になり、人情の温かさにふれ、三条大橋の上で大声で泣いた日もありました。

―出版の仕事を決心されたのはそのころですか。

 生活をたてるには私が頑張らなくてはと、津曲と娘を京都において東京へ出ました。ワラでもつかみたい気持ちで知り合いの人々に借金して弥生書房を始めました。小林秀雄先生、川端康成先生はじめ井伏鱒二、河盛好蔵、草野心平、串田孫一先生らが応援し支えてくださいました。七年目からどうにか軌道に乗り、「定本八木重吉詩集」など約八百点の出版物がいま出ています。

―印象に残る出版は。

 「曽我量深選集」でしょうか。先生のご臨終に、津曲と駆けつけました。先生はもう目を閉じておられました。私が手を差し伸べると、強い力で握り返してくださいました。私は号泣しました。

―ご主人のご臨終は。

 私がお念仏をいただけたのは津曲が息をひきとる時です。それまでは、津曲の信仰を疑っていました。ナムアミダブツと言うと「ウソだ、ウソだ」と後ろから聞こえてくる気がしていました。介護役の私が主治医にしかられた時、息も絶えだえに私に「仏心になれ、人間同士なら許せないこともあるだろうが、如来さまはすべてをお許しになる。だから、おまえが仏心になればいいのだ」と言いました。津曲は二度ニコッと笑って、息をひきとりました。私は思わずナムアミダブツと唱えました。死に際の見事だったのには驚きました。やっぱり津曲の信仰は本物だと思いました。

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つまがり・あつこさん 一九二〇年京都府生まれ。四二年中央公論社入社、四四年結婚。五二年人文書院入社、五一年弥生書房創業。著書に「女社長出版奮闘記」。


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