連載(14) 都で暮らす人々(3)トイレ事情
屋外での排泄が一般的 遺構発掘はわずか数例

 「穴を掘ればトイレになる。でも、その用途がトイレかどうか、見極めるのが難しい」。長岡京市埋蔵文化財センター調査員の木村泰彦さんは苦笑する。食事ととともに、人の生活から切り離せないトイレ。しかし、遺構検出は存外少ない。

 一般的なのは円形や方形の穴を掘り、板を渡した「土坑型汲取(くみとり)式トイレ」だ。長岡京でも1990年、左京二条三坊三町(向日市鶏冠井町石橋)の宅地跡で見つかった。厨房(ちゅうぼう)施設とは対角線上最も離れ、目隠しの柵(さく)も。トイレットペーパー代わりの木ぎれ「籌木(ちゅうぎ)」約400点も出土した。

大路の側溝から水路を引き込んだ水洗式トイレの遺構。中央に板を2枚渡し、使用したと思われる(長岡京市神足寺田付近)
 長方形の穴は容量約330リットル。水洗トイレが普及した現代、その量は想像しがたいが、10人で作業する発掘現場では1ヵ月で簡易トイレに100-180リットルたまるそう。向日市埋蔵文化財センター事務局長の國下多美樹さんは「水分が落ちた後、おけですくい、道路側溝に流した」と推測する。

 当時、都の側溝は都市下水の役目を担っていた。大路沿いの側溝は幅1・5メートル−2メートルもあった。処理能力を直接生かす形で、水路を引き込んだ「水洗式トイレ」も、左京六条二坊十四町(長岡京市神足寺田、典薬)で検出されている。

 とはいえ、1700回におよぶ長岡京の発掘調査で、トイレ遺構は疑い例も含めてわずか数例だ。10年ほど前に「トイレ考古学」が注目されるまで、あまり意識されていなかったとはいえ、6、7万人といわれる当時の都の人口規模から考えると、あまりにも少ない。

 平安後期の絵巻物「餓鬼(がき)草紙」には、人の糞(ふん)をねらう「伺便(しべん)餓鬼」が描かれている。朽ちかけた築地塀の脇で排泄(はいせつ)する人々は、足元が汚れないよう高下駄(げた)をはき、籌木を手にしている。こうした屋外での排泄が一般的であったことを示す史料とされる。もっとも、庶民のほとんどが裸足(はだし)か草履の時代、そろって高下駄姿なのは「公衆トイレのような空間だったのでは」(木村さん)。

 そうした時代に、数ヵ所とはいえ、トイレが設けられたのはなぜか。

 人糞をため置くのは、肥料としての活用が一番に思い浮かぶ。近年までそうした営みは続いていた。中世以前にさかのぼる史料はないが、長岡京では天皇の食膳(しょくぜん)を調理する「内膳司」にかかわる宅地跡から畑を思わせる「うね溝」も検出された。國下さんは「新鮮な生野菜の供給のため、都の中で生産していたのかも。肥料の可能性も否定できない」と言う。

京都新聞 洛西版 2004年6月24日掲載
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