連載(28) 長岡京ミステリー(7)10年の都(下)
治水に膨大な費用 政治的緊張関係も

 わずか10年で幕を閉じた長岡京。栄華の時代の幕引きは、後の世の人々の興味をかきたてる。桓武天皇を長岡廃都へ踏み切らせたのは、遺跡にもつめ跡が残る大水害か、それとも不遇の死を遂げた早良親王の怨霊(おんりょう)か−。複雑に絡み合う廃都の理由の一端を探ってみた。

現在の乙訓寺(長岡京市今里3丁目)。早良親王が幽閉されたと文献に残る乙訓寺は、現在地の北側に広大な境内地があった
 洪水説  

 「水陸の便あってここに都を移す」。『続日本紀』にあるように、桂川や小畑川が発達した地形は、都づくりには好都合だった。しかし利便性をもたらした河川は、梅雨や台風で大雨が降ると、たびたび氾濫(はんらん)した。

 長岡京は京都盆地の西端から桂川に向かって丘陵地、台地、沖積低地と続く地形に立地。小畑川は向日丘陵の西側を通り、京域中央部の低地に扇状地をつくった。水害は文献にも記録が残る。延暦11(792)年に2度の大洪水に見舞われ「式部省南門が雷雨で倒壊」「桂川が氾濫した」。

 中山修一さんとともに長岡京発掘の先駆者といわれる小林清さんは、廃都の理由に洪水災害説を唱えた一人だった。左京に住む官人や庶民は水害に悩まされ、小畑川の治水工事には大変な労力と費用を要したと考えた。

 発掘調査でも洪水の痕跡は確認されている。小畑川の川筋だった三条東一坊や、現在の向日市文化資料館付近の傾斜地では、条坊の側溝に堆(たい)積(せき)した土砂や、宅地が埋没した跡が見つかった。

 「異常気象で大雨と日照りを繰り返した」。向日市埋蔵文化財センター技師の中塚良さんは、長岡京期から平安時代前期にかけての自然条件に着目する。また宮域北部の高台地から採取した花粉分析の成果に触れ、「マツの植生から森林の荒れた状態が分かる。開発で裸地が増え土砂が流出しやすかった」と話す。

 水害が廃都の直接の引き金になったのか。都が壊滅的な打撃を受けたとは言い難く、遺跡や地形、地質などの断片的な調査データをつなぎ合わせる検証作業がなお続く。

 怨霊説   

 長岡京廃都の理由に、早良親王の祟(たた)りや怨霊説も根強い。祟りや怨霊が引き起こす災厄は、どんなものなのだろう。  平安遷都前の延暦11年、「日本紀略」に「皇太子久病、卜之崇道天皇為祟…」と、安殿皇太子(のちの平城天皇)の病を早良親王の「祟り」としている。

 新京造営のつち音が絶えない延暦4年、造長岡京使・藤原種継が大伴継人らに射殺された。桓武天皇の同母弟の皇太子・早良親王は事件に連座して乙訓寺に幽閉後、淡路島に配流の途中、死去した。幽閉中、早良は潔白を訴え、10日余りも飲食を断った。壮絶な最期は桓武をはじめ、人々の心に重い楔(くさび)を打ち込んだに違いない。

 このため、亀卜(きぼく)で示された「祟り」も受け入れられやすかった。桓武の近親者の死も相次ぎ、「王権側の不安材料が続いたとき、神祇官の亀卜や僧侶の祷祷(きとう)は平安を得る危機管理装置としてあった」と大江篤・園田女子大助教授は語る。

 しかし「祟りと怨霊は違う」と大江助教授。文献上、早良の「祟り」は長岡京の廃都前、「怨霊」は平安遷都後に散見され、語り手も神祇官と興福寺の僧とに分かれる。

 祟りの語源は立有(たたり)=立ち現れる。本来、神祇官が亀卜で示す神の意思表示で、人の恨みで表出するものではなかった。早良の「祟り」を示した神祇官は、奈良の寺院勢力とかかわりがあり、以前、東大寺で出家していた早良との接点もある。興福寺の僧にしてもしかり。いずれも桓武の反対勢力だ。

 祟りや怨霊には、王権側の後ろめたさにつけこんだ、政治的な緊張関係が浮かび上がる。

京都新聞 洛西版 2004年11月11日掲載
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