おもしろ話(1) 天ぷら<上>
江戸時代は屋台で揚げたて

 天ぷらは謎に包まれた食べ物です。今でこそ、すしとともに日本料理の代表として君臨していますが、そもそも「天ぷら」は、日本料理なのでしょうか?

 写真の絵は、江戸後期の天ぷら屋台を描いたもの。

揚げたての天ぷらをあついうちに天つゆと大根おろしで
食べた(「風俗画報」明治28年)
 江戸時代、天ぷらは、もっぱら辻売り。つまり屋台で売られていました。現在、私たちが街角でタコヤキをほおばるような感覚で食べられていたのが、江戸の天ぷら。一般的にお座敷で食べる料理ではありませんでした。

 テンポラ、テンペロ…。天ぷらの語源を調べると、いくつかの説があります。いずれも、スペイン語やポルトガル語などがなまったと言われるものですが、どれもはっきりとしたことは分かっていません。

 室町後期には、南蛮料理のなかに「テンフラリ」という天ぷらの原型のような料理があらわれます。鯛(たい)に小麦粉をまぶし、豚の油で揚げたものに、雁(がん)、白鳥、雉(きじ)、小鳥の肉のたたきあんかけだったといいます。「てんぷら」という呼び名は、江戸初期の文献に初めて登場します。

 天ぷらにまつわる興味深いエピソードに、徳川家康の死因説があります。家康は鯛の天ぷらにあたって死んだというものです。『徳川実記』には、京阪ではやっていた、鯛をカヤ油で揚げ、ニラをすりかけたものを食べた晩からおなかの調子が悪くなり寝込んだ、と記されています。ことの真偽はともかく、家康が食べたものは当時、京阪で「つけ揚げ」と呼ばれていた食べ物。このつけ揚げが江戸に伝わり、天ぷらとして急速に普及していきます。

 江戸では、エビ、カイバシラ、アナゴ、コハダなど、魚介類を揚げたものを天ぷらと呼びました。京阪ではもっぱら「つけ揚げ」と呼ばれ、京阪で天ぷらといえば、さつま揚げのようなものを差していたようです。

 外来文化の影響を強く受けながら、江戸の庶民の間で人気を得た天ぷらは、さらに西と東の文化が重なり合って、現在の姿に近づいていきます。

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