おもしろ話(24) 京の洋菓子店
御所の冠職人から転職
 

 日本の洋菓子のルーツは南蛮菓子にさかのぼります。カステラや金平糖(こんぺいとう)、有平糖など、16世紀、ポルトガル人が伝えたといわれる菓子です。

食品画像
大正期に再建された店舗。「桂月堂」という看板の字は、富岡鉄斎が明治35年に書いた(中京区寺町通三条上ル)

 ケーキやビスケットといった洋菓子が本格的に知られるようになるのは、幕末あたりから。諸外国との接触が増え、新しい時代へ移り変わっていく中で、少しずつ紹介されていきます。

 洋菓子は神戸など旧居留地のイメージが強いのですが、京都の洋菓子店もユニークな歴史を持っています。

 写真は、寺町商店街(京都市中京区)の桂月堂。一見、和菓子店のようですが、明治13(1880)年創業の欧風菓子店です。もともと御所に納める冠を作っていた家でしたが、文明開化の波に押され、洋菓子店に転業したのだそうです。記録によると、同9年、初代の石野和三郎氏は神戸でドイツ人に欧風菓子やパンの作り方を習いました。同13年には京都に戻って開業しますが、洋菓子はまだ珍しいものでした。

 「異人の食べる菓子を食べれば、体中が毛むくじゃらになる」「牛のように毛が生える」など、悪い評判を立てられることもしばしばで、普及には大変な苦労がありました。困難に直面する状況を見て、新島襄、アメリカ人教師のデントン、京都府知事を務めた槇村正直など、京都の近代化につくした人々が声援を送ったようです。その後、京都府知事の葬儀で市民への粗供養の菓子として桂月堂のカステラが配られたのをきっかけに、人々にも受け入れられるようになったそうです。

 大正期にはアイスクリームも製造。東本願寺や京都大も得意先で、昭和初期には、中学や女学校などのバザーに出店することもありました。6代目当主の石野猛(67)さんによると、「昔は洋菓子だけでなく、あんパンを焼いたりいろいろなものを作っていました。コーヒーや紅茶も出していたし、バザーではカレーライスなどの洋食もこしらえていたのでは」とのこと。当時はほとんど注文販売。昭和40年代、寺町通のアーケードが完成するまでは、菓子の見本箱を携えて注文とりに回っていました。

 現在もバタークリームを使用したスポンジ生地を味わうタイプのケーキを作り、夏は傷みやすい生クリームの菓子やシュークリームは作らないそうです。和と洋が入り交じる店の雰囲気が、洋菓子草創期の様子を伝えています。

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