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 宇治茶

 宇治市の近鉄小倉駅から東へ。旧奈良街道に入ると、もう香ばしい香りが漂ってくる。整然とした格子窓、井桁(いげた)文様の塀の装飾、風格ある構えは山政小山園。同園は、文久元(一八六一)年創業。社長の小山洋一さん(70)は四代目にあたる。「半農半商のスタートと聞いています」。今も、生産と商いの両方を手がける。

 一口にお茶と言っても、抹茶、玉露、煎茶、番茶…いろんな種類があるが、同園が得意とするのは、抹茶と玉露。

 「このあたりは昔からよい玉露や碾茶(てんちゃ)=抹茶の原料=がとれるんです。京都盆地最大の巨椋池(おぐらいけ)があったからです。池の周りの葭(よし)は、覆い下茶に必要な葭簾(よしず)の材料になったし、人糞を運ぶ肥船(こえぶね)は鴨川から巨椋の船着き場へ楽に入ってこられました」

 昭和十六年、食糧政策のため、池は干拓されて水田と化したが、食糧供給が不必要になった二十年代、茶畑に取って代わられた。

 小山さんが茶業に入ったのはそんなころ。折しも父親の政次郎さんが戦時中中断していた品種改良の仕事を再開、大学で農芸化学を学んだばかりの小山さんはこの研究に没頭して「さみどり」はじめ数々の京都府奨励品種を生み出した。

 二月、茶畑は施肥で忙しい。広大な平地に並ぶおびただしい茶の木。伸びやかな手摘み用の畑、整然と縞模様を描くはさみ刈りの畑。どちらにも、一本一本ていねいに菜種の油かすがまかれる。耳のちぎれそうな寒風のなか、気の遠くなるような作業だ。「窒素肥料をやるほど茶のうまみがでる。よい茶の成否は施肥にかかってますからね」。

 四月に入ると、覆いかけ。今は、葭簾に代わって寒冷紗。日光をさえぎることによって葉は薄く柔らかく、色も濃い緑に。

 五月は茶摘み。碾茶と玉露は手で摘む。根気と熟練のいる作業だ。

 ついで製茶。新芽を蒸し、乾燥する。碾茶はもまずに乾かし、玉露はもみながら乾かす。こうしてできたのを荒茶と呼ぶ。

 荒茶は大きさをそろえ、葉と軸を選別した後、品質を整えるために合組(ごうぐみ)、つまりブレンドする。碾茶にはこの後、臼挽き作業が待っている。

 「大事な工程? やはり審査です。生産者から仕入れる荒茶の品質を審査するんです。新茶の時期に行いますが、今ごろになると、足りない品目が出てきて、追加仕入れをするんです」

 小山さんは審査を行う「会見場」へわれわれを導いた。二十畳余。細長い部屋には「拝見台」が備え付けられ、北側の壁面は全面ガラス窓。澄み切った二月の青空が広がる。

 内装は柱も壁も拝見台もすべて黒。対して審査用の急須と茶碗は白一色だ。小山さんは三種類の荒茶でお茶を入れた。お湯の温度は六十度、時間は四分。モノトーンの世界にお茶の葉の緑とお茶の色が浮かび上がる。小山さんは、それぞれのお茶の色、味、香を調べる。

 「この審査でうちのお茶の特徴が決まる。どんな特徴? 上品さです。きれいに作られていること、変な味や香りがしない…。うーん、ことばでは言い表せませんよ」

 長年の経験と鋭い感性―問屋ならではの伝統技術から生み出される茶の品位といえばいいのだろうか。


・MEMO・
 製茶文化史研究家の若原英一氏によれば、茶は平安時代、最澄、空海によって唐からもたらされたが、いったん途絶えた。鎌倉時代初期、臨済宗の開祖、栄西禅師が宋から抹茶の製法と喫茶法を伝えた。高山寺の開基、明恵上人は種を栂尾や宇治にまいたが、宇治の風土が栽培に適したため、生産地として大きな発展を遂げ、室町幕府の宇治七名園が生まれたころには、栂尾に代わって宇治が茶の本場となっていく。江戸時代には幕府の御用達となり、230年にわたってお茶壷道中が行われ、また、中期には煎茶の宇治製法、後期には玉露の製法が編み出され、宇治茶の名を高からしめた。
 京都府宇治茶協同組合の調べでは、全国の茶生産量は年間約9万トンで、静岡、鹿児島、三重の三県がうち約70パーセントを占める。京都府は約3パーセントだが、碾茶、玉露など覆い下茶は全国で1位。


<いただきま〜す>

▼鯛茶漬け



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