2. 高速スライダー デビューから完封の連続
身を削り 優勝に貢献

 1990年秋、社会人野球の強豪、三菱自動車京都のグラウンド。伊藤は隣で投球練習していた同僚の永田晋一に声をかけた。「スライダーの投げ方を教えてください」。伊藤は花園高を出て2年目。直球とカーブしか持ち球がなく、同じ相手と何度も対戦する社会人野球で投球内容が苦しくなっていた。
入団一年目、巨人を3安打に完封し7勝目を挙げた伊藤(1993年7月4日、神宮球場)

 スライダーを得意としていた永田は「ボールの縫い目に人差し指と中指をはわせ、チョップするように横回転を加える」典型的な投げ方を伝えた。伊藤の飲み込みは早かった。「すぐに私のスライダーを超えられました。ホームベースの幅を完全にまたぐくらいの大きな曲がり方だった」。現役引退後、投手コーチも務めた永田は懐かしそうに当時を振り返る。

▽“球持ち”武器に

 永田は伊藤のキャッチボールを見て気づいていた。長い手足を生かしたしなやかなフォーム。「肩、ひじ、手首と関節が異常に柔らかいと思った」。事実、伊藤は手の甲を反り返らせて指を手首にくっつけることができる。関節が柔らかいと可動域が広がり「球持ち」が良くなる。腕がしなって球速が上がり、球に回転を多く加えられることで変化球の切れも増す。

 スライダーを身につけた伊藤は、体が大きくなってきた時期とも重なり周囲が驚く成長を遂げた。球速は1年で10キロ以上アップ。全日本代表に名を連ね、92年にはバルセロナ五輪に出場、140キロ後半の直球と130キロ台の高速スライダーで2試合に完封勝ちして銅メダル獲得に貢献した。

 93年、ドラフト1位でヤクルトに入団後も勝ち星を重ねた。開幕から3カ月で14試合に登板し、7勝2敗。4試合完封し防御率0・91という驚異的な数字を残した。直球と速度がさほど変わらない高速スライダーで、プロの強打者から次々に三振を奪う姿は圧巻だった。

▽分業意識薄く

 野村克也監督率いるヤクルトはその年、2年連続のリーグ優勝、15年ぶりの日本一に輝く。「伊藤がいないと優勝できなかった」との捕手古田敦也の言葉が、活躍ぶりを物語っている。故障でシーズン後半を棒に振りながら、新人王にも輝いた。

 しかし、序盤にフル回転した「つけ」は大きかった。「あのころは投手の分業制や投球制限に対する意識が低く、1試合で200球近い投球数になることもあった。今では考えられないくらい投げていたが、それが当たり前だと思っていた」と伊藤。7月に右ひじを故障し、翌94年のキャンプで右肩を痛め最初の手術に踏み切った。

 96年に復帰すると、97年には抑え投手として7勝19セーブを挙げカムバック賞を受賞した。153キロの自己最速もマークしたが、故障の不安が常につきまとった。「僕の関節は柔らかいというより、緩すぎるんです。いかに周りの筋肉で補っていけるかが課題だった」。筋肉や故障に関する知識を蓄え、シーズン中もほかの投手以上に筋力トレーニングに取り組んだ。「休むのが怖かった」からだ。

 そんな努力にもかかわらず、右肩痛は慢性化していた。99年には指先に血が通わなくなり、握力がなくなった。「右肩血行障害」。肩の酷使で血管が圧迫されていた。右太ももの血管を移植してバイパスにする大手術を行った。だが、故障は上半身だけで終わらなかった。投球を支える下半身にも及んできた。

 ヤクルトのコンディショニングコーチ、谷川哲也は話す。「関節が柔らかく可動域が広いのは投手にとって有利。しかし、関節内の衝突や摩擦も激しくなり、故障をしやすくなるリスクも伴う」。そして、こう続ける。「トモは身を削って仕事をしてきたんですよ」 (敬称略)

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