<11>土俵で学んだ人生
大相撲元十両「大岳」
横江 英樹(「相撲ちゃんこ大岳」主人)

  小学生のころ、デパート屋上で開かれた相撲大会で準優勝した。賞品は大相撲京都場所の招待券。目の前で初めて見た大相撲は「異次元の世界」のように思えた。数年後、その世界に飛び込んでいた。

 17歳で入門、1983年の春場所で初土俵を踏んだ。約半年で序ノ口、序二段を経て三段目まで順調に上がった。しかし、身長182センチ、10キロは小柄な部類。立ち会いで頭から当たる相撲が求められたが、恐怖心が先に立った。先輩は面目をかけてぶつかってきた。21歳直前で幕下に昇進し、目標の十両が見えてきた。  

調理場で仕込みに励む横江。「気分良く食べてもらい、満足して帰っていただくことが基本」(草津市北山田町)

▽“勝つべき時”思い知り

 角界に生きる若者にとって十両の二文字には特別な響きがある。十両以上が関取となり、初めて1人前の力士として扱われる。化粧まわしを締め、付き人が世話を焼き、給料が出る。4場所連続で勝ち越して幕下4枚目まで上がり、十両が手が届く位置に来た。「他の部屋の強い相手と稽古(けいこ)しても勝てていた。負ける気がしなかった」。しかし、思わぬ負傷が待っていた。

■華やかな暮らし

 肌寒さの残る春場所の直前。ぶつかり稽古で胸を出した際に腰を痛め、チャンスを棒に振った。勝ち切れない場所が続くと、上り調子だった時の自信も消えた。「あの時に上がっておけばと思ってしまう。次に負けたらどうしようと考えてばかりで」。試練は長く、十両昇進は26歳まで待たされた。

 草津市で育った。小学4年からサッカーに熱中したが、松原中1年で体格の良さを見込まれ相撲部に引っ張られた。びわこ国体(81年)を控え県全体がスポーツで盛り上がっていた。勧誘された近江高へ進学。2年の冬、彦根市でちゃんこ料理店を営む元幕下の龍豊に勧められ、東京両国の時津風部屋へ見学に行った。

 稽古で若手の力士に勝つと、風呂で一緒になった親方が「いい体だ。やってみないか」。夜は野洲町出身の蔵間(元関脇、故人)から食事に誘われ「頑張ったら、こんな生活ができるんだよ」。地元に帰っても華やかな東京体験が忘れられなかった。大学からの誘いもあったが高校2年で中退、最も苦労する道を自分で選んでいた。

 新弟子生活は厳しい。稽古は朝4時から3番稽古、ぶつかり稽古、申し合いと続く。しきたりも細かく、年下の「先輩」も敬称で呼んだ。浮き沈みは土俵が決める。はい上がるしかなかった。

■故障が分岐点に

 十両では好不調が交互に押し寄せた。10勝を挙げて2枚目まで上がり幕内が見えた場所もあったが、故障が増えると守りの意識が芽生えた。「十両を維持しようと思う気持ちが前に出る気をそいだ。欲がなかった」。92年の名古屋場所で左太ももを負傷、翌場所は全休した。完治しても、再び幕下からやり直せるのか。先を考えると気力が衰えた。28歳で廃業した。

 10年間の力士生活は、幕下時代の故障が分岐点になったと思う。「一つの失敗が後に響くことがある。勢いで上がっていれば、どうなっていたか」。その後に味わった苦労には大きな価値がある。でも勝負の世界を生き抜くためには、勝たないといけない時だった。

 料理店で見習いをし、8年前に草津市内に自分の店を持った。調理場を取り仕切り、夜遅くまで仕事は続く。祝儀袋を「ごっつあんです」と受け取った関取時代とは違い、「自分で稼ぐことの厳しさが身に染みて分かった。1万円でも1000円でも稼ぐ苦労は同じ」。

 角界に「負けて相撲は覚える」という言葉がある。「あの10年があったから、今の自分がある。負けていろいろなことを覚えた。今も毎日、負けながら覚えている」。まげは切っても、「大岳」の名は背負ったままだ。真剣勝負の「場所」は続いている。

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