表情の下に隠した重圧

(11)ソウル五輪卓球代表 石田清美(宮津市出身)

石田清美さん 

 少女時代から全国レベルで活躍した早熟な選手生活は、今の福原愛(ミキハウス)と重なって見える。でも「愛ちゃんは3歳で始めたけど私は10歳から」と苦笑いし、言葉を続けた。「それに私は泣かなかった。喜びも、怒りもしない無表情な選手だった」。20歳で迎えた1988年のソウル五輪。ダブルスで世界4強入りする快挙を遂げても、「つらい大会」という記憶しか残っていない。揺れる気持ちを飲み込み、表情を変えず世界と戦った。

少女時代から活躍

 宮津中2年の時から注目を集めた。全国中学大会準優勝、全日本選手権カデットで優勝し、中学生で初めて全日本合宿に呼ばれた。練習を終えた夜、寝台列車で東京に向かう。一人では弁当も買えず、いつも空腹のまま合宿地まで過ごした。それでもトップ選手の技術を垣間見るのは喜びだった。見たことのないサーブの変化やドライブの回転量…。「練習がきつく帰りたがる選手が多かったが、自分は楽しくて」

 小児ぜんそくだった姉の体力を養うため小学4年の時に、家の応接間に卓球台が置かれた。やがて元選手だった父が「宮津卓球研究所」を開き、本格的な練習が始まる。父は礼儀にも厳しく「練習中に歯を見せるな」。マシンから打ち返す基本練習でも「当てるな。振り切れ」。腹の立つこともあったが、独自の打法を研究する父が競技に真剣なのは分かっていた。

 高校も強豪校からの勧誘は父がすべて断り、地元に残った。1年で全日本選手権混合ダブルスで優勝し世界選手権も経験すると、「高校では負けられなくなった」。スタイルは前で激しく攻めるペンの前陣速攻。2、3年でインターハイを連覇し、住友生命(大阪市)に入社後も父の方針で練習拠点は宮津に置いた。

 研究所に通って来るジュニア選手は石田のクセを知り抜き、負けることもあった。「すると相手の子の親が喜んで。気が抜けず、公式戦より怖かった」と思い返す。ソウル五輪から卓球が正式競技となり、前年12月のアジア地区予選で3人目の代表枠を得た。しかし、五輪を境に絶好調だった卓球が陰り始めた。精神的な負荷がかかり、ラケットがスムーズに振り切れなくなる「イップス」だった。当時はそんな言葉も知らず、「自分はおかしくなった」と1人で悩み続けた。

 日本のエースだった星野美香(三井銀行、当時)とのダブルスが期待を集めるほど、より重圧感は増していく。全精力を注いだシングルスは3勝2敗で予選敗退。思いとは裏腹にダブルスで予選を勝ち抜き、メダルが近づいてきた。

ソウル五輪の3位決定戦でユーゴに敗れた。後方が石田、手前は星野(88年9月30日、ソウル大体育館)
 いしだ・きよみ 宮津市出身。37歳。宮津中2年で全日本選手権カデット優勝、宮津高1年で同選手権混合ダブルス優勝。高2、3年でインターハイのシングルス連覇。世界選手権は3度出場。住友生命に入社しソウル五輪でダブルス4位。その後ミキハウスに移籍し30歳で引退。現在は卓球インストラクター。大阪市平野区在住。

「思ったこと言えば…」

 準決勝の相手は前年の世界選手権を制した韓国ペア。第1セットで19−16まで追い込んだが、自分のレシーブミスから5連続失点して流れを見失う。第2セットも9−21で落としストレート負け。当時はシングルスの選手でダブルスを組むルールで、国内最強ペアは他にいた。「ずっと一緒に試合に出ないと分からないことが多い。大会中、ずっと星野さんが打ちにくそうだなと思っていた。対戦相手とパートナーのことを考えて頭がこんがらがった」。続く3位決定戦もユーゴ(当時)に敗れてメダルを逃がした。

 今も鮮明に覚えているのは、金メダルに輝いた韓国ペアの動きだ。勝ち気な妹を姉が諭すような雰囲気が、ネット越しに伝わってきた。いい関係だなと思った。だから強いんだとも思った。「自分たちには遠慮があった。もっと思ったことを2人とも言った方が良かった。言わないといけなかった」

 五輪後もイップスに悩まされながら、全日本選手権シングルスで2度の準優勝を飾る。症状が完全に消えたのは30歳で引退し、ママさん卓球のインストラクターになってからだ。「強くなりたい意欲のある人ばかり。今は本当に毎日が楽しい」。無表情だった選手時代とは違い、生き生きとした明るい表情がのぞく。

 「本当の自分はこうなんです。卓球の時は、そうしていただけで」。無邪気な少女のような笑顔だった。