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 米大リーグで今季、京都成章高出身の大家友和(エクスポズ)が自己最多の13勝を挙げた。日本のプロ野球で目立った実績を挙げないまま渡米。イチロー(マリナーズ)や野茂(ドジャース)らとは異なり、マイナーリーグからはい上がった大家は日本人メジャーリーガーの中でも特別な輝きを放つ。アメリカ野球に挑み続ける大家の夢を描く。

おおか・ともかず
1976年、京都市右京区生まれ。梅津小、梅津中から京都成章高に進み、94年、ドラフト3位で横浜ベイスターズに入団。通算成績1勝2敗。98年、自由契約となりレッドソックスとマイナー契約。99年、2Aのトレントンでスタートを切り同年夏にメジャー昇格、9人目の日本人メジャーリーガーとなる。01年にモントリオール・エクスポズへ移籍。メジャー4年目の今季13勝8敗の成績を挙げ、メジャー通算20勝25敗。身長183センチ、83キロ。右投げ、右打ち。


[1] 13勝
[2] マイナーから
[3] サバイバル
[2]マイナーから

「頼りは自分」力蓄えた


 1994年春。小学生のころからの夢だったプロ野球選手になった。京都成章高からドラフト3位で横浜に入団。でも、初めてのキャンプで違和感を感じた。「早く家に帰りたい」と言い出す選手がいたり、練習をだらだら過ごしたり。18歳の大家の目には「野球に打ち込んでいる人ばかりではなく、がっかりした」と映った。

 入団直後の4月、ヤクルト戦でいきなり初勝利を挙げた。八回裏二死から登板し、わずか3球で挙げた白星。しかし、これが横浜の5年間で唯一の勝利となった。その後は一軍とファームを行き来し、目立った実績は残せなかった。

 97年秋。球団に大リーグの教育リーグへ行かせてほしいと頼んだ。「アメリカの野球をやってみたかった。どんなことをやるのか。興味があった」からだ。ボストン・レッドソックスのキャンプ地で、若手選手に交じって40日間、汗を流した。この体験が転機への大きなステップになった。

 京都市右京区の学童チーム「梅津北ジュニア」でプレーを始めた野球少年は中学生になると、テレビのメジャーリーグ中継が楽しみになった。「めちゃくちゃ大きい人が変な投げ方や打ち方で、すごい球を投げたり。(速球投手の)ライアンの球をでかい人が情けない空振りをしたり。ものすごいところだなと思った」

 教育リーグはテレビで見たメジャーとレベルが違ったが、日本の球団とは違う空気に包まれていた。「みんなが伸び伸びとプレーしていた。抑えつけられることもなかった。聞こえは悪いが、やりたいようにやっていた」。いろいろな思いが凝縮し、「楽しい」という記憶が頭の片隅にずっと残っていた。

 渡米希望を球団に伝えながら、翌98年も横浜で過ごした。その年の夏に母校の京都成章が甲子園で準優勝し、秋には横浜が38年ぶりにリーグ優勝。11月、自由契約となり、レッドソックスとマイナー契約した。「自分が通用するかどうかを考えて行ったわけではない」。日本での野球をあきらめたり、嫌になったわけでもない。純粋にアメリカでのプレーが楽しみだった。

 ■活躍支える競争の体験

 メジャーを頂点に3A、2A、1Aとピラミッドを構成するアメリカ球界。スタートを切った2Aで8連勝、3Aで3連勝し、わずか3カ月でメジャー昇格を果たした。「早かったという意識はある。でも、そこから落とされることは十分にあるし、クビになることもある。開放感はなかった」。実際、何度もマイナー降格を味わいながら、メジャー定着への力を蓄える時期が続いた。  00年に3Aで「完全試合」を達成。「Ohka」の名前が広まり、遠征先でもファンから声を掛けられる機会が増えた。01年にはモントリオール・エクスポズへトレードされた。

 「アメリカの球界でチームが変わるのはほとんどの選手が経験すること。それを僕は早めに体験しただけ」。生活環境が変わっても、野球への姿勢は変わらなかった。「頼れるのは自分だけ。頼ったとしても最後は自分。決めるのは自分」という考えを貫いた。

 イチローや新庄、石井ら最初からメジャーでプレーした選手とは異なり、大家にはマイナーからはい上がってきた自負がある。「アメリカではマイナーを経験することが普通。日本で実績を残したからといって、いきなりメジャーに行くことが特別。いろいろな部分で守られているし、うらやましいとは思う。自分が偉いとは思わないが、これがアメリカでは普通のこと」

 し烈な競争を勝ち抜かなければならないマイナーリーグ。そこでの体験が、アメリカ球界で生きる大家の原点になっている。