Kyoto Shimbun
第1部 国境を超えたボール <4>


南北統一願う「国技」
対抗戦で民族意識

1990年10月に実現した統一サッカー大会で、一緒に入場行進する韓国(右側)と北朝鮮の選手たち=ソウルの蚕室オリンピック競技場(共同通信)
 三八度線を行き来するのは文字通り命懸けだった。

 三十六年に及んだ日本の統治から解放されて程ない一九四六年三月。米ソによる分断を乗り越え、平壌からトラックと船を乗り継いでソウルに渡ったサッカーチームがあった。

 「ソウル−平壌」戦

 「警備は今ほど厳しくなかったのですが、帰る途中、ソ連軍が機関銃を撃ってきてリュックでこう頭を隠したもんです」。メンバーの一人だった李炳国さん(81)は、その時と同じ格好をして笑った。

 李さんらが必死に臨んだ試合はソウル(旧京城)と平壌の対抗戦「京平戦」。民族精神の高揚を目的に二九年に始まり三五年に中断。四六年のこの時、一度だけ復活した。南北ともサッカーを「国技」と呼ぶ朝鮮半島では、その再開に民族統一への願いが重なる。

 スタンドに収まりきらない数万の観衆。熱狂的な声援を受け、グラウンドでは「絶対負けられない」という意地がぶつかり合った。

 「2試合やり最初はソウルが2−1、次は平壌が3−1で勝った。平壌へ帰ると(得点を合わせて)4−3で勝ってきたと大々的に宣伝しましてね」と、今はソウルで暮らす李さん。

 のしかかる"威信"

 解放前最後の京平戦に出場し、復活戦開催に尽力した90歳の元選手は「解放前から選手にも観衆にも、日本から独立したら自分たちが国を担うのだという気概があった」と言う。

 だが、背負うべき国は四八年、南北別々に樹立。往来は完全に途絶する。

 それから三十年後。七八年のバンコク・アジア大会サッカー決勝で南北の代表が相まみえた。選手の背には、それぞれの国家の威信がのしかかっていた。  「でもその時感じたのは、同じ民族同士、どんな試合になるのかという好奇心でした」。当時、韓国代表の主将を務めた金鎬坤さん(50)は振り返る。  決勝は延長でも双方無得点で決着がつかず、両者優勝という幕切れだった。  試合後は主将同士、仲良く肩を組んで記念写真に納まった。「その写真はずっと自宅に飾ってありますよ。今なら『ちょっと来いよ』と声を掛けてくれれば、すぐにでも北へ行ってみたいんですがね」

 世代超え思い託す

 九○年 和解ムードに乗って平壌とソウルで統一サッカー大会が実現

 九九年 対北柔軟政策を掲げる金大中政権下、平壌で労働団体によるサッカー大会開催

 サッカーをめぐる交流と空白期間は、近づいては離れる南北関係を鏡のように映し出してきた。

 二○○○年六月の南北首脳会談での合意を受け、離散家族の対面が実現した同八月十五日。ソウルでの韓国リーグのオールスター戦で、記念のキックオフ役を務めたのは、九九年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)から亡命した尹明燦さん(51)だった。

 北朝鮮サッカー界を統括する地位にあったが、成績不振で解任された後に父が暮らす韓国へ。現在はプロサッカー連盟役員として、競技場で審判の判定などをチェックする。

 「これからの夢? わたしには北のサッカーを最高役職で指導してきた自尊心がある。その能力を韓国でもぜひ発揮してみたい」  民族統一を開く扉、そして自己の誇り。サッカーに託す思いは世代を超えて受け継がれている。(共同通信=栗田裕康)


北朝鮮 鮮烈デビュー
 朝鮮半島の南北分断後、サッカーの国際舞台にまず躍り出たのは韓国だった。五輪は一九四八年ロンドン大会、ワールドカップ(W杯)は五四年スイス大会に初出場。しかし世界の強豪相手に大敗を重ね、力の差を見せつけられた。

 対照的に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、六六年のW杯イングランド大会で初出場ながらイタリアを破ってベスト8に進出、鮮烈な印象を残した。衝撃を受けた韓国はその後「大統領が十一もの銀行にチームをつくるよう命じて強化に乗りだした」(姜・元韓国代表監督)。

 初の南北対決は七六年アジアユース選手権(バンコク)準決勝。1−0で北朝鮮が勝利したが、韓国GKが負傷転倒中に決勝点が入り後味の悪さを残した。

 その後、九○年の統一サッカー大会を経て、九一年世界ユース選手権(ポルトガル)では統一チームを結成して臨み、八強入り。

 ユースを含めた公式戦の対戦成績は韓国の6勝3分け4敗とほぼ互角。北朝鮮は九三年のW杯米国大会の最終予選以来、国際試合から遠ざかり、八六年以来W杯に四大会連続出場の韓国に大きく水をあけられた。


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