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旧皇室典範11条、戦後と「即位の礼」の変化たどる

京都御所へ向かう悠紀斎田供納米の納入行列(昭和3年)
京都御所へ向かう悠紀斎田供納米の納入行列(昭和3年)

 天皇は東京に移っても皇室の儀礼は京都で行うー。1889(明治22)年、明治政府は旧皇室典範を制定し、11条に「即位ノ禮(れい)及大嘗祭(だいじょうさい)ハ京都ニ於(おい)テ之(これ)ヲ行フ」と定めた。維新後、京都の衰退に明治天皇は気をもんだ。伊藤博文らが尽力して盛り込んだ条文通り、大正と昭和の「即位の礼」と「大嘗祭」は京都で営まれた。だが、戦後、新憲法下初の即位となった平成はどうだったのか。

 「即位の礼は東京で盛大に挙行され、大嘗祭は京都で斎行されることが最も本質的で現実的だ」

 旧皇室典範の制定から100年目を迎えた1989(平成元)年、京都で大嘗祭の実施を求める運動があった。戦後に制定された新皇室典範では、儀礼の京都開催の条文はない。京都経済界が中心となり、当時の京都商工会議所会頭・塚本幸一氏は先頭に立って政府に要望書を提出した。

 ワコール創業者の塚本氏は戦時中、多数の戦死者を出したインパール作戦の生き残り。97年設立の保守派団体「日本会議」の初代会長。せめて大嘗祭だけでも京都に―。運動には京都の学者や文化人も加わり、たびたび陳情を行った。

 だが、東京に機能が集中する中で、京都の突出した運動に国民の関心は高まらず、国会でもほとんど議論はなされなかった。90年1月、政府の「即位の礼委員会」と宮内庁の「大礼委員会」は、即位の礼と、「公的行事」ではない大嘗祭をいずれも東京の皇居で日をずらして行うと発表した。

 当時、誘致に携わった京商OBは「経済界が先行する状況で、京都市民の間でさえ、運動が盛り上がらなかった」と振り返る。「先例」を唱えるだけでは、北海道や九州の人たちからも「ぜひ京都で」と賛同するような何かが欠けていた。結局、京都では京都御所の茶会の開催にとどまった。

 時は流れて2010年、京都府や京都市、大学、経済界、文化人が再び集い、「京都の未来を考える懇話会」を立ち上げた。同会が13年に発表したビジョンでは、皇族を京都に招き、皇室行事の一部も京都御所で行うよう求める「双京構想」を柱に据えた。懇話会の趣意書は「首都機能の双眼化」「日本の大切な皇室の弥栄(いやさか)のために」「京都は(中略)国指定文化財や美術工芸品の多さは群を抜き」などと理由をあげる。

 だが、その構想も尻すぼみになった。

 天皇陛下の生前退位の議論が進む2017年2月、京都市議会での双京構想に関する質問に、門川大作市長は「陛下のお気持ちに沿うことが重要。政府の動きを注意深く見守る」と歯切れが悪かった。京都誘致について当時、与党関係者は「京都は言うだけで行動が伴っていない。絶対に考えられない」「警備の問題もあるし、だめだ」と一笑に付した。

 東京への一極集中で、皇室と京都のつながりは薄れていく。その中で、京都を中心とした大嘗祭を今に伝える行事が滋賀県にある。

 優美な姿から「近江富士」と称される三上山。麓には鳥居が付いた厳かな水田が広がる。1928(昭和3)年、滋賀県野洲市三上では、昭和の大嘗祭で供えたコメを作った「悠紀斎田(ゆきさいでん)」が今も残る。斎田は卜定(ぼくてい)(占い)で、東の「悠紀」地方、西の「主基(すき)」地方の2カ所を選んだ。その東西を分けた中心は京都御所だった。

【 2019年05月06日 19時48分 】

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