Kyoto Shimbun 2002.5
W杯 韓国代表 朴智星の軌跡(3)Jでの成長

戦いで多くを学ぶ

 「韓国サッカーの闘志を見てほしい」。2000年6月、朴智星は、城陽市の京都パープルサンガクラブハウスで入団会見に臨んだ。力強い内容とは裏腹に、消え入りそうな声。海外で始めるプロ生活に不安を隠しきれなかった。

 サンガはこのころ、Jリーグ1部で2勝12敗1分けと低迷、第1ステージを最下位で折り返していた。下位2チームはJ2へ降格する。瀬戸際に立つチームに加わった朴には、いきなり「J1残留の新戦力」としての役割が課せられた。

 初めて触れる日本のサッカー環境は、驚きの連続だった。プレー中に年下の選手が平気で年上の選手を呼び捨てにし、指示を送る。「韓国は上下関係を重んじる儒教の影響で、年上の言うことは絶対。先輩から洗濯を命じられたらやるのが当たり前だった」。サッカーの「特待生」として小学六年から厳しい寮生活を送ってきた朴には、サンガの自由な雰囲気が信じられなかった。

 言葉の壁、食事の違い…。覚悟してはいたが、苦労は大きかった。日本語は寮でテキストを読み、独学に励んだ。母国の味を求め、韓国料理が出る宇治市の居酒屋に通ったこともある。

 しかし、ピッチの上では、まぎれもない中心選手だった。来日して10日あまりたった第2ステージ開幕戦に先発出場。豊富な運動量と正確なパスで、サンガの中盤に欠かせない存在になった。朴もまた、J1残留をかけた厳しい戦いの中で多くを学んでいた。「プレーの判断のスピードが上がり、ボールを持った時に余裕が生まれた」

 韓国サッカー協会も、成長する朴を放っておかなかった。23歳以下の選手で構成する同年のシドニー五輪では予選リーグ全試合に先発フル出場。年齢制限のないA代表のアジアカップでも五試合に起用され、韓国代表の地位を着々と築いた。

 だが、急成長がチームからの離脱につながる皮肉な結果を招く。J1残留争いが佳境に入った11月、韓国協会からアジアユース選手権への招集要請が届いた。朴の意志は「サンガに残りたい」だったが、国際サッカー連盟の規定で代表への合流が優先された。

 中盤の核を欠いたサンガは、朴が離日した6日後、ジュビロ磐田戦に逆転負けし、降格が確定的となった。「僕は助っ人だから、常に結果をだしていかないと。本当に悔しい思いをした」。外国人選手の役割を強く意識する朴は、降格に痛いほど責任を感じた。(敬称略)


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