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祇園・花見小路景観、明治から計画形成 京都の大学院生が調査

外国人観光客でにぎわう祇園町南側の花見小路通。明治末期から統一された景観づくりが意識されていたことが分かった(京都市東山区)
外国人観光客でにぎわう祇園町南側の花見小路通。明治末期から統一された景観づくりが意識されていたことが分かった(京都市東山区)

 京都らしい街並みとして観光客に人気がある祇園町南側の花見小路界隈(かいわい)(京都市東山区)の茶屋街が明治以降、どのように形成されたのかを京都府立大の大学院生が調べた。一帯の土地を所有する地元組織「八坂女紅場(にょこうば)」の理事会決定書を分析した結果、明治末期に土地を貸すにあたって土地使用者に2階建てにするよう義務づけていた。地域が今も受け継ぐ統一された景観が計画的に形成されていったことが明らかになった。

 調査したのは4月から京都市役所景観政策課に勤める園部隼平さん(24)。研究成果を修士論文にまとめ、6月中旬に日本建築学会近畿支部大会で発表した。

 理事会決定書は、八坂女紅場の後継である学校法人「八坂女紅場学園」(東山区)で見つかり、閲覧が認められた。園部さんは、残されている1904(明治37)年以降の理事会決定書を、終戦の年の45年分まで調べた。

 明治初期の上知令で建仁寺から府に収用された旧境内などの土地約6万平方メートルは、地元出資の「婦女職工引立会社」(翌年に八坂女紅場に改称)に払い下げられた。この貸地開発に際しての貸し付け条件が明治37年の理事会決定書に記されていた。「土地使用者ニハ必ス弐階建ニシテ貸座敷営業ヲ為(な)シ」とあり、建物の構造を限定し、土地使用者も貸し座敷営業に絞っていた。明治45年に別の敷地を貸す際にも、この規定を適用していた。

 理事会は祇園の茶屋営業者や芸舞妓が所属する学校の校長らで構成されており、園部さんは「地元の総意で今に至る整然とした街並みが形作られていったことが分かる」と話す。

 貸地開発は、祇園甲部歌舞練場が現在の場所に移転する13(大正2)年の前年にほぼ終わったことも判明し、この時期におおよそ現在の街並みが完成したとみられる。花見小路から東西に延びる四つの小路が現在のような状態に整備される際の図面もあった。記載内容から、東西の小路は明治33~37年の間にできたと推定された。

 地元主導で計画的に貸地開発が行われた理由について、指導した大場修教授(日本建築史)は「明治になって観光客誘客のための『都をどり』も始まる中で、花街らしい空間を創出していく狙いがあったのではないか」と指摘する。

【 2018年09月11日 16時30分 】

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  • 外国人観光客でにぎわう祇園町南側の花見小路通。明治末期から統一された景観づくりが意識されていたことが分かった(京都市東山区)
  • 祇園町南歴史的景観保全修景地区
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