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平安前期の坊城小路を発掘 京都で調査、江戸前期の坊城通跡も

発掘現場
発掘現場

 京都市中京区西ノ京勧学院町・南聖町の発掘調査で、平安時代前期の坊城小路と、江戸前期の徳川家光による二条城再整備に伴い約8メートル東側に移された坊城通の跡が見つかった。旧坊城小路はメインストリート朱雀(すざく)大路の一筋東を南北に通る。調査した民間会社は、平安後期以降の出土品が少ないため、平安京で栄えたとされる左京にありながらも、右京と同様に衰退した後、江戸期に再開発されたことが分かる遺構としている。

 場所は、平安京左京三条一坊の四-五町に当たるホテルの建設予定地(約180平方メートル)。民間調査会社の京都平安文化財(伏見区)が8月から調査を進めている。

 坊城小路跡では、路面(幅約7メートル、長さ約8メートル)と、東西の両端に側溝(幅、深さともに約80センチ)が出土した。西側溝の西側には、横板やくいでつくる木組みの壁が添い、一帯に広がっていた湿地帯の東辺を隔て、護岸の役割を果たしていたとみる。

 江戸期の坊城通跡は現在の坊城通に沿って路面・西側溝(合わせて幅約4メートル、長さ約8メートル)が見つかった。江戸前期ごろに、平安期の遺構面から30センチほどかさ上げされて整えられていた。寛永年間、後水尾天皇の行幸(1626年)などに伴い、3代将軍家光が二条城を大改修し、街区整備で周辺の道路も付け替えた。その後、道路西側が削られて現在の通りになったとみられる。

 出土品は、長岡京の建物から転用されたとみられる奈良時代の瓦や、平安前半期(9~10世紀)の緑釉(りょくゆう)陶器などが坊城小路跡で見つかっている。一方、平安後期から江戸後期までは数が少なく、土地利用が進まなかった様子がうかがえるという。

 平安京は平安中期以降、朱雀大路より東の左京が栄え、西の右京が廃れたとされる。調査地は当時の官庁街・平安宮に近い上、一帯には貴族・藤原氏の教育機関「勧学院」があり、平安京造営当初は左京の一等地だったとみられる。

 京都平安文化財は「調査地は、湿地の多かった右京に近い土地条件だったため、利用が滞ったのではないか」としている。

【 2018年09月22日 16時00分 】

ニュース写真

  • 発掘現場
  • 平安京の坊城小路の西側溝(調査員の立っている付近)で見つかった木組み。湿地帯の東辺と接し、護岸のため設けられたとみられる=京都市中京区
  • 奈良時代に作られたとみられる瓦。長岡京の建物から転用されたとみられる(京都市中京区)
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