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梅原猛さん最期「ぱあっと花咲いたよう」 妻・ふささん振り返る

故梅原猛さんの遺影の前で思い出を語る妻ふささん(京都市左京区)
故梅原猛さんの遺影の前で思い出を語る妻ふささん(京都市左京区)

 日本古代史に大胆な仮説を提示し、国際日本文化研究センター(京都市西京区)の創設に尽力した哲学者で、1月に93歳で亡くなった梅原猛さんの妻ふささん(90)=左京区=が、21日の「お別れの会」を前に、京都新聞の取材に応じ、最期の様子を語った。「ぱあっと花が咲いたようでした。東の方から台のようなものが来て、寝床から引っ張って上にすうーと載せていったような気がしました」と明かした。

 猛さんは2017年12月に自宅で転倒し、腰椎を骨折。手術とリハビリを経て昨年8月から自宅で寝たきりの状態だったという。

 最期は今年1月12日午後4時半ごろ、45年暮らした東山山麓の自宅で、ひ孫を含めた家族に見守られて静かに迎えた。「私は頭の辺りにいたんですけど、誰かが連れて行くような自然な感じで、亡くなったという気が湧かないぐらい。大往生やなと思いました」。生と死を考え続けた夫らしい旅立ちの瞬間を振り返った。

 22歳で結婚し、70年近く連れ添った。「やはり変わった人でした」。通説にとらわれず、「梅原日本学」と言われる独自の世界を展開した猛さん。ふささんが明かす素顔は、まさに「独創」にあふれていた。

 ■「座ったところが書斎」

 「家では座ったところが書斎。そこらじゅうで店を開く。ぱっと思いつくのか知らないですけれど、本を開いて原稿を書き出す」。ふささんはそう語った。

 哲学の道の終着点から若王子山に入った森の中にある邸宅は、かつて哲学者の和辻哲郎が住んだ。その後に住んだ画家の岡崎桃乞(とうこつ)がふささんの姻戚に当たる縁で、1974年に移り住んだ。大きな池を望む一室で祭壇の遺影を前に、ふささんが亡き夫を振り返った。

 「若い頃は大きな字をゆっくりと書くんですが、書いていると頭の方が先に進んじゃうのか、くしゃくしゃの字になっちゃうのね。そういうところが不器用なんでしょうね。後になって口述筆記になりましたね」

 51年、猛さんは自身が育った愛知県の稲垣家の四女ふささんと見合い結婚した。「最初の家は西陣の間借りで。訪ねてきた母は驚いたと思いますが、主人はあったかい人でしたから、安心していたと思います」

 京都大大学院の特別研究生だったこの頃、猛さんは「いちばん苦しいとき」と後年振り返っている。「人生は何の価値もない」というニヒリズムの思想と格闘していた。「勉強のことはあまり言わなかったです。友達夫婦がよくうちに集まってマージャンやトランプをして、結構楽しく遊んでいましたよ」

 立命館大に職を得た猛さんは、京大人文科学研究所の上山春平氏と出会い、桑原武夫氏が主宰する研究会に参加。京都学派の長老に目をかけられた。そしてニヒリズムから脱却し、真逆の「笑い」を探究する。

 研究に没頭する余り、自宅の風呂場でちょっとした「事件」が起きた。「浄土寺に住んでいた時です。五右衛門風呂の白い壁に鉛筆で何やら思いついた記号を書いて、湯気で垂れてきて。長女がそのことを学校の作文に書いてしまって本人は恥ずかしそうな顔をしてました」

 60年代に学園紛争が激しさを増す中、大学のあり方に反発した猛さんは林屋辰三郎氏や奈良本辰也氏に続き、立命大を辞めた。「全然相談なし。『辞めたよ』の一言でした。それから3年間の浪人生活が始まりましたが、どうやって食べてたんでしょうね。それでも自然と人が集まって来て、家で研究会もしてました」

 この浪人時代に猛さんは、のちに古代3部作と言われる「神々の流竄(るざん)」「隠された十字架」「水底の歌」を執筆し、「梅原日本学」の基礎を築いた。

【 2019年04月18日 13時28分 】

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  • 故梅原猛さんの遺影の前で思い出を語る妻ふささん(京都市左京区)
  • 1月に93歳で亡くなった梅原猛さん
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