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吉田松陰が添削、いとこの日記発見 誤字訂正や「面白くない」も

朱筆が松陰の書き込み。漢字を教えて丁寧に添削している様子がわかる
朱筆が松陰の書き込み。漢字を教えて丁寧に添削している様子がわかる

 幕末の尊皇思想家吉田松陰(1830~59年)が、直筆で添削をしていたいとこの玉木彦介(1841~65)の日記を、京田辺市職員の男性が発見し、このほど一部を学術雑誌で発表した。これまで散逸して所在がわからなくなっていた史料で、長州藩の幕末の動向などが新たにわかる可能性があるという。

 見つかったのは、松下村塾を設立した長州藩士・玉木文之進の子、玉木彦介の日記や備忘録計6冊で、1855~64(安政2~元治元)年に書かれた。

 発見したのは、京田辺市教育委員会の松本勇介さん(34)。2016年12月に、同市関連の約100点の古文書群をネットオークションで見つけ、岐阜県多治見市の古書店から私費で落札した。京田辺市内の庄屋に残っていたとみられる江戸-明治時代の古文書に交じって、冊子状に綴じられた本に朱筆で「松陰頑夫」と書いてあるのを発見した。

 吉田松陰と推測して解読や調査を進めると、1936年発刊の「吉田松陰全集」によく似た表現のある「玉木彦介日記」を発見した。全集には1855(安政2)年に書かれた日記3冊が収録されているが、今回見つかったのが、未収録部分を埋める日付に一致し、散逸した彦介の日記と判明した。彦介は、山口の萩で野山獄に収監されていた松陰と、日記や手紙のやりとりをしていた。

 今回発見された日記のうち松陰とのやりとりが残るのは2冊。朱筆で点を打ったり誤字を正しながら読み進めた様子がわかる。「ゴボウのゴは『午』ではなく、牛頭や牽牛子と同じ『牛』である」と教えたり、「江戸の見物や食べ物の話ばかりで面白くない」などの感想を余白に書いたりして彦介を諭している。

 別の4冊では、松陰の死後に彦介が京都や長崎などの見聞をつづっている。長州藩が英仏など4カ国と戦った四国艦隊下関砲撃事件(1864年)前夜に、彦介らが長崎で欧米各国の動向を探った聞き書きや、後の長州藩主毛利元徳(定広)の行動を記載した箇所もあり、幕末史研究に役立つという。

 松陰は、江戸の刑場で処刑されるが、高杉晋作らによって墓から掘り起こされて改葬されている。今回の発見で、この改葬の日付が定説と異なることが新たにわかった。吉田松陰について書かれた史料は、後年に関係者が語ったことを根拠にしているためだという。

 学生時代は同志社大や大阪市立大大学院で、江戸時代の寺院や村落の歴史を専攻していた松本さん。現在は京田辺市で、市史編さんに取り組んでいる。松陰関連史料の調査は仕事には関わらないため、休日の子育ての合間や、仕事後の時間を活用し、調査を進めてきた。だが「幕末史は詳しくないので、調査には限界を感じていた。多くの人に見てもらう方が良い」と考え、松陰の文書が多く所蔵されている山口県文書館(山口市)に寄託した。これまでに判明したことを、歴史専門雑誌「日本歴史」2019年6月号(吉川弘文館)に発表した。

 1点あたり約60円で売られていた今回の古文書群。「京田辺市の誰かに伝わっていたのではなく、古書業者の収集や売却の過程で、偶然に玉木の文書が交ざった」と松本さんは推測する。「貴重な史料をあるべき場所に置くことができたのが、歴史に携わる1人としてうれしい」と話している。

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 玉木彦介(彦助) 長州藩士。1841(天保12)年に萩に生まれた。松下村塾を創設した玉木文之進の子。11歳年上の松陰とは仲が良く、彦介の元服に際して武士としての心得「士規七則」を贈られた。高杉晋作の奇兵隊と一緒に、長州藩の主導権を争う戦いに参加、25歳で戦死した。

【 2019年08月16日 15時00分 】

ニュース写真

  • 朱筆が松陰の書き込み。漢字を教えて丁寧に添削している様子がわかる
  • 発見された玉木彦介の日記。左端に朱筆で「松陰」などとあるのが確認できる(松本さん提供)
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