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野口みずきさん「寂しくて…」声詰まらせ 真木和さん死去で

 49歳の若さで亡くなった1996年アトランタ五輪女子マラソン代表の真木和さんは、実業団入りした京都で才能を開花させた。愛媛・今治北高時代は無名選手だったが、ワコールでの猛練習を耐え抜いた努力の人。2004年のアテネ五輪で金メダルに輝いた野口みずきさん(40)の先輩でもある。関係者は「野口の金メダルは、真木の存在があったからこそ」と功績をたたえ、野口さんは「寂しくて、寂しくて…」と声を詰まらせた。

 真木さんが本格的に陸上を始めたのは高校から。1985年の第3回全国女子駅伝に愛媛から出場したが7区21位。2年時は補欠に回った。87年に京都のワコールに入社すると、藤田信之監督の指導でめきめきと力をつけた。コーチだった広瀬永和さん(53)=現・岩谷産業監督=は「闘志を内に秘めるタイプで、練習に食らいついてきた」と振り返る。

 切れ味鋭い走りを武器に次第に距離を伸ばし、入社3年目の89年から全日本実業団女子駅伝でワコールの前人未到の4連覇に貢献。92年には1万メートルで31分40秒38の日本新記録を樹立した。同年のバルセロナ五輪に初出場した。

 その後、しばらくは藤田監督からのマラソン挑戦の打診を断り続けた。「バルセロナで有森(裕子)の銀メダルを見て、挑戦を何度も持ちかけたが断られた。トラックの大歓声の中で走りたいという感覚が強かったようだ」と藤田さんは言う。広瀬さんも「トラックへのこだわりというか、スピードランナーという周囲のイメージへの配慮があったのか。実はマラソン挑戦までは時間がかかった」と振り返る。

 数カ月の準備期間で96年3月の名古屋国際女子に挑み、初マラソン初優勝を遂げた。アトランタ五輪でも日の丸を背負い、2大会連続の日本代表という快挙を引き寄せた。

 「私は真木先輩にあこがれて、ワコールに入った。陸上でも人間的にも、本当に強い人だった。でも、私たち後輩にはとても優しかったんです」

 後輩である野口さんは振り返る。慕っていた先輩の思いがけない早い死に「ショックです。寂しい」と声を絞り出した。

 2人は98年に藤田監督らとワコールを退社後、新チーム結成までの約半年間、所属先がないつらい時期を過ごした。失業保険を受けながら「チーム・ハローワーク」と呼んで互いに励まし合い、乗り越えた。

 真木さんは生前、金メダルを取った野口さんについて、「新人時代は根性だけの印象だったのに小さな体で本当に強くなった」とうれしそうに語っていた。野口さんも「先輩は昆明(中国)でのマラソントレーニングに付き添ってくれ、退社後もメールや電話で相談に乗ってくれた」と懐かしそうに語る。

 短い人生をさっそうと駆け抜けた真木さん。野口さんは「心からありがとうと伝えたい」と数々の思い出をかみしめるように話した。

【 2018年10月24日 21時17分 】

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