京都国立近代美術館で開催の「フォンタネージ—イタリアの光・心の風景」の見どころを紹介します。

■見どころ
1.イタリア近代風景画の巨匠フォンタネージの日本初の大回顧展

初期から晩年に至るまでの油彩画や、スイスや英国を旅して制作した版画などを含む約200点により、お雇い外国人に留まらないフォンタネージの魅力が明らかに!

2.フォンタネージ来日から150年を経て、師と弟子たちの作品が集結
イタリアから来日する作品群に加え、国内の美術・博物館所蔵のフォンタネージ作品、
浅井忠、小山正太郎ら弟子たちの作品も一堂に会する貴重な機会

3.20世紀イタリアの芸術家たちにも影響を与えたフォンタネージの先進性を検証
セガンティーニやカルロ・カッラなど、後世の画家たちへのフォンタネージの遺産を検証する意欲的な企画


■展示構成
第1章 「 絵画」としての風景(1850 ‒1860年)
故郷レッジョ・エミリアで美術の専門教育を受けたフォンタネージは、第一次イタリア独立戦争に参加した後、スイスのルガノ、次いでジュネーヴに拠点を移しました。
美的な構図と「ピクチャレスク」な景色の追求から、風景画家・フォンタネージの歩みが始まります。

第2章 心をうつす風景(1855 ‒1875年)
1855年、バルビゾン派の画家トロワイヨンともにパリ万博を訪問したフォンタネージは、コローや他のバルビゾン派の画家の作品に触れる機会を持ちました。これをきっかけのひとつとして、フォンタネージは自然に忠実であるだけでなく、繊細かつ抒情的な気分を取り入れた絵画の制作をはじめます。

アントニオ・フォンタネージ「朝」1855-58年トリノ市立近現代美術館 
GAM – Galleria Civica d’Arte Moderna e Contemporanea, Torino. Courtesy Fondazione Torino Musei

第3章 都市の風景(1854 ‒1880年)
スイスへの移住、英国滞在、イタリア各地への旅の中で、フォンタネージは都市の風景に目を向けます。
ジュネーヴ市内に取材したリトグラフに始まるフォンタネージの都市風景は、アルバム『ロンドンのスケッチ』でより洗練され、イタリアの外光派・マッキアイオーリの画家たちとの交友を育んだフィレンツェ滞在、アルベルティーナ美術アカデミーへの招聘(しょうへい)を契機としたトリノへの移住を経て、彼の都市への関心はさらに強化されました。

アントニオ・フォンタネージ「ロンドン、ラドゲート・ヒルより望むセント・ポール大聖堂」(アルバム『ロンドンのスケッチ』より) 1866年 トリノ市立近現代美術館
GAM – Galleria Civica d’Arte Moderna e Contemporanea, Torino. Courtesy Fondazione Torino Musei

第4章 日々の仕事と自然(1860 ‒1875年)
パリのサロンへの出展を通して、ローザ・ボヌールやジャン=フランソワ・ミレーらの絵画に触れたフォンタネージは、1860年ごろから次第に日常生活や社会に根差した主題の探求をはじめます。
農民や家畜、そして人間と自然の関係に重きを置いたフォンタネージの作品は、彼の画業における重要な転換点を示しています。

第5章 一瞬の光を描いて(1867 ‒1880年)
フォンタネージは光の変化を感情の起伏と結びつけました。雲が太陽を遮った瞬間、平原に虹色の光が放たれるその一瞬を切り取った「四月」、日没時の光の変化に従って風景が変容していく様を描いた沼地の連作——気象と光の移ろい、そしてその効果に着目し、不安定かつ神秘的な自然を、フォンタネージは丹念に絵画化します。

アントニオ・フォンタネージ「四月」1873年 トリノ市立近現代美術館
GAM – Galleria Civica d’Arte Moderna e Contemporanea, Torino. Courtesy Fondazione Torino Musei

第6章 日本での制作と教育(1876 ‒1878年)
明治政府により設立された工部美術学校の画学教師に任命されたフォンタネージは1876年8月頃に東京に到着しました。およそ2年後の1878年秋、健康上の理由や学校の改革の頓挫等により帰国したフォンタネージでしたが、体系的な教育の試みや熱心な指導は、女子生徒を含む教え子との間の実りある対話と信頼関係をもたらしました。浅井忠、小山正太郎、松岡壽をはじめとする生徒たちは師の教えをさまざまに昇華し、その後の洋画の基礎を築きます。

浅井忠「徳川家の霊廟Ⅰ(寺の入り口Ⅰ)」1878年頃 トリノ市立近現代美術館
GAM – Galleria Civica d’Arte Moderna e Contemporanea, Torino. Courtesy Fondazione Torino Musei

第7章 晩年の作品(1878 ‒1881年)
帰国後、フォンタネージはアルベルティーナ美術アカデミーでの仕事を再開します。しかし、1880年のトリノ国民美術博覧会に出品された大作「雲」は、本人の自信とは裏腹に敵意のある批評にさらされてしまいます。晩年のフォンタネージは、今まで吸収したコローやターナーの教訓を再解釈し、「真実」の風景を追い求めます。

アントニオ・フォンタネージ「雲」1880年 トリノ市立近現代美術館
GAM – Galleria Civica d’Arte Moderna e Contemporanea, Torino. Courtesy Fondazione Torino Musei

第8章 フォンタネージの遺産(1872‒1928年)
風景へのまなざし、人間と自然との関係、空気と光の描写——フォンタネージの死後、彼の芸術的遺産は次世代の芸術家に受け継がれます。彼の指導を受けたエンリコ・レイチェンドや没後の回顧展に関与した彫刻家レオナルド・ビストルフィ、豊かな叙情性を継承したミラノのスカピリアトゥーラ運動の画家たち、モチーフの面でその遺産を展開させたジョヴァンニ・セガンティーニやジュゼッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード、顕彰と評価によって敬意を表したカルロ・カッラやフェリーチェ・カゾラーティ。かたちはさまざまですが、多くのイタリアの芸術家の作品に、フォンタネージの遺したものは息づいています。

■アントニオ・フォンタネージ プロフィール
1818年、イタリア北部レッジョ・エミリアに生まれ、当地の美術学校に学ぶ。1848年、第1次イタリア独立戦争に志願兵として身を投じ、除隊後スイスに逃避。ジュネーヴを拠点に活動すると同時にパリ訪問や南仏での制作も行う。1859年、第2次イタリア独立戦争に従軍、同年ジュネーヴに戻る。パリのサロンへの出品やロンドン、フィレンツェへの滞在ののちジュネーヴのアトリエを引き払い、1868年にルッカの美術アカデミーに校長兼教授、翌1869年にトリノのアルベルティーナ美術アカデミーの風景画教授に就任する。
日本の工部美術学校の画学教師の募集に応じ、1876年に来日するものの体調の悪化などを理由に2年で帰国。1879年にアルベルティーナ美術アカデミーに復職し、以降後進を指導する傍ら、トリノを拠点に制作を続けた。1882年、トリノにて没。享年64。