■京都と民藝の深い関わり

1923年関東大震災で被災し、翌年に京都へ転居、約10年にわたって居住した柳宗悦。「民藝」という言葉はこの京都で柳らの交遊によって生まれ、彼らは京都の朝市などで雑器の蒐集を本格的に開始します。「民藝」の歩みは、明治末から大正、昭和へと社会が近代化する中で、人々の衣食住の概念を変革させていくものであり、その活動は京都から日本そして世界へと広がっていきます。

■本展のみどころ

「⺠藝」という⾔葉が誕⽣するきっかけとなった⽊喰仏を⽪切りに、上加茂⺠藝協団で活動した⿊⽥⾠秋、⻘⽥五良の作品や、「⺠藝館」「三國荘」のために制作された河井寬次郎、濱⽥庄司、バーナード・リーチらの⼯芸作品、柳宗悦らによる⽇本全国の蒐集品や、芹沢銈介、棟⽅志功などの⺠藝関連作家の優品を展⽰します。また英⽂学者の寿岳⽂章、京菓⼦の鍵善良房、⽜⾁⽔炊きの祇園⼗⼆段家、⺠藝の建築を推し進めた上⽥恒次など京都における⺠藝運動の推進者や⽀援者をめぐる作品や資料などとあわせ、京都と⺠藝との関わりを総合的に紹介します。

 

 

展覧会の構成

序章|「民藝」という言葉の誕生~木喰仏の発見~

関東大震災の翌年、柳宗悦(やなぎむねよし/1889~1961)は木喰仏1体を得て京都に移りました。木喰仏への興味を契機に柳と濱田庄司(はまだしょうじ/1894~1978)、河井寬次郎(かわいかんじろう/1890~1966)は交友を深め、1925(大正14)年、彼らの木喰仏調査の旅中、「民藝」の語が生まれます。
 

第1章|上加茂民藝協団 ~新作民藝の制作集団~

1927(昭和2)年に京都・上賀茂の地に青田五良(あおたごろう/1898~1935)、黒田辰秋(くろだたつあき/1904~1982)等による制作集団・上加茂民藝協団が設立されます。民藝運動の目的の一つは、現代の生活用品を新たに産み出すことでした

 
第2章|三國荘~最初の「民藝館」~

1928(昭和3)年の御大礼記念国産振興東京博覧会に出品した「民藝館」を契機に、柳宗悦は静岡・浜松に日本民藝美術館を設立。また、大阪・三国に移築した「民藝館」は、「三國荘」として民藝関係者のサロンとなりました。※三國荘(民藝館)1928(昭和3 )年に東京上野公園で開催された御大礼記念国際振興東京博覧会に柳宗悦、河井寬次郎、濱田庄司らによって出品された民藝の理念を示す建物であった。民藝館を博覧会閉会後に山本邸があった大阪・三国の地に移し、さらに柳がその地に因み三國荘と命名したころからその名が民藝の世界に定着したものである。

第3章|式場隆三郎(1898-1965)と自邸

精神科医としての医業の傍ら、木喰仏の調査などの運動に当初から関わった式場隆三郎(しきばりゅうざぶろう)。柳や濱田などが設計に関わった民藝の代表的建築とされる自邸を紹介します。

第4章 日本全国の蒐集品

柳宗悦らは京都の朝市で、人々が日常的に使用する道具類に美しさを見出し、蒐集を始めます。彼らの蒐集の旅は北海道から沖縄まで日本全土におよびました。

 
第5章 民藝と「個人作家」

民藝運動は、河井寬次郎、濱田庄司、バーナード・リーチ、富本憲吉、芹沢銈介、棟方志功ら、優れた個人作家の活躍により推進されました。民藝に個人作家が果たした意義を考えます。

 
第6章 民藝と京都

柳宗悦は京都に足掛け9年住みました。その間に本格的な雑器の蒐集が開始され、京都の地、また人々との関わりから「民藝」の思想が紡ぎだされ、運動が展開していきます。